9.12.2018


走ることに加えて、僕の数少ない趣味である外国語の学習について。

先日も書いたが、村上春樹の言葉を思い出す。

「人間というのは生まれて、どたばたと生きて、死んで失われていくだけだというのが、僕の基本的な人生観です。目的も意味も、とくになにもありません。ただその「どたばた」の中にある種の一貫性を見出すことによって、無意味さの苦しみをある程度緩和させることは可能だろうと考えています。僕の場合は、それは小説を(書けるところまで)書き続けることです。」

これは、とても示唆に富んだ言葉だ。一貫性を持って何かをやり続けること。「走ること」は僕の一貫性だと書いたが、これに「外国語を学習すること」を加えたい。僕は小学生高学年くらいから、ずっと英語を勉強してきた。そして数年前から、ドイツ語を勉強している。

英語は、多少の実利を僕にもたらしたかもしれない。しかし僕自身は、実利のために英語を勉強してきたわけではない。仮に実利がなかったとしても、僕は英語を勉強し続けたことだろう。

ドイツ語の学習について書きたい。

僕はレベル的には、「接続法Ⅰ」と「接続法Ⅱ」がどのように違っていて、それぞれどのような場面で使用するかを理解していて、限定された語彙とシチュエーションであれば、ドイツ人とドイツ語で会話することができる。それ程度のレベルである。大したレベルではないのだが、かといって全くの初心者、というわけでもない。

しかしいずれにせよ、原則的にはまったく趣味的に学習している。ドイツ語を仕事に生かそうとか、あるいは転職しようとか、そういう気はまったくない。

ただドイツ語の学習がもたらす愉悦を得るために学習している。要するに愉しいからやっているのだ。

僕はスパルタな学習方法が好みで、ただひたすら日本語の問題文をドイツ語に訳す、という方法を取っている。特に好きなのは、森泉の『しっかり身につくドイツ語トレーニングブック』という問題集だ。大量のドイツ語作文問題で構成されている。作文主体の教本なのである。

僕はただひたすら、紙にドイツ語を書いていく。ここからが愉しいのだが、万年筆(ラミーのサファリ)で書く。かりかりと書く。万年筆で書くのは愉しいことだ。ときどき、ドイツ語を学ぶために書くのではなく、サファリを使うためにドイツ語を学んでいるような気になる。

じゃあドイツ語じゃなくて何でもいいから他のこと(たとえば般若心経とか)を書けばいいじゃないかというと、そうではない。ドイツ語を書く、これが愉しいのだ。

大量に買ってあるノートが、ペリカンの青いインクで埋まっていくのをみるのも愉しい。なぜ愉しいのかは分からないが、愉しい。満足感がある。

愉しいことというのは、なぜ愉しいのか分からない。少なくとも説明は非常に難しい。そしてその「説明の難しいものを説明しようとする試み」にも、愉しさがある。