2018年8月22日

Faust


老後に何をするかについて書いた。実際のところ、老後僕は、ただひたすら本を読んで、ただひたすら走るのだろう。

こういう老後が嫌だ、と言っているのではない。それどころかこれは、僕にとって最高の老後の過ごし方だ。

いや、老後どころかあと十年もすれば、僕は少しずつ余暇を得るようになる。今はまだ子供達が小さいが、十歳にもなれば僕の手から離れて、同年代の子供たちで勝手に遊ぶようになるだろう。そうなれば平日も土日も休日も夏休みも、今よりずっと時間ができるだろう。

本といえば、最近『ファウスト』を読了した。ファウストは大学の頃に読もうとして挫折した記憶がある。第一部はいいのだ。問題なく読める。問題は第二部だ。ギリシア神話の素養がないと、訳が分からない。

しかし、ともかく最後まで読んだ。すると訳が分からずとも、やはりこれはすごい作品だと思った次第である。ギリシア神話について勉強してから、また読もう。

一方で、最近本屋に行っても、心がときめかない。映画館に行ってもそうである。結局のところ、新しく出版される本も封切られる映画も、子供騙しに見えて仕方がない。もちろん中には傑作があるのかもしれない。しかし、それを発掘する時間は僕にはない。だからもう、古典しか読まないと決めたのだ。

しかし『ファウスト』ほどの傑作を読むと、自分の人生というか存在意義が、どうでもいい問題に思えないでもない。よい意味で。僕自身は、到底『ファウスト』のような作品は書けない(当たり前だ)。しかし少なくとも、『ファウスト』の価値がわかる(気がする)。それで十分じゃないか。というか、それは随分幸福なことじゃないか。

芸術作品というものは、それ自体で存在意義があるのではなく、それを鑑賞して理解できる人間がいてはじめて、価値を持つことができる。つまり芸術作品は、それを鑑賞する人間を待っている。

老後の話をしているのだった。そう、だから、僕は古典を読もう。