10.22.2017

存在の耐えられる軽さ


最近面白いブログを見つけた。たぶん筆者の方は、年齢は少なくとも50歳以上で、60手前くらいだろうか?

かなりの趣味人で、金もかなりもっている。28、35、50ミリの新品ライカレンズに加え、ノクチルックスも一本持っている。しかし本人いわく「道具を揃えてわかったが、結局のところ道具を揃えても何も変わらない」という。うーん、清々しい人だ。こういう人は、あまりみない。

それも面白かったが、これも興味深いと思ったのは、その人は自分のことをあまり金持ちだと思っていないことであった。いや、思っているのかもしれないし、実際、普通の意味でかなり金持ちだと思う(たぶん年収2~3千万?)のだが、同窓会に出るのは気後れするとのことだった。なんでも同窓生に経営者が多く、数十億円単位で金をもっている、と。一体どういう学校なんだ、と思ったが、うーん、そういうものか、と思わずにいられなかった。

その人自身「他人と自分を較べるのはよくないとわかっているのだが」と言っていたが、僕から見れば、いやいや、あなたは十分に裕福だ、と思うのである。しかしポイントは、裕福であるかどうかではなく、やはり、比較なのだろう。

僕の給料や資産(と呼べるとして)などは、比較に持ち出すまでもないささやかなものなので、この点については、悩むこともない。

ここで、かなり論理が飛躍するが、やはり人生の無意味さとは、多くの人を傷つけるものだと思う。僕は最近、ほとんどすべての人の人生は、というか人生というものは本来的に無意味なものだな、と感じる。別に暗い感じではなく、ただ、からっとそう思ってしまうのである。

おそらく、年収が数千万あって、資産が数億円あったとしても、無意味さは根源的には解消できないだろう。

無意味さについて思い当たると、それが怖くなることはときどきあるし、実際、多くの人は意識的にせよ無意識的にせよ恐れているのではないか、と思う。

しかし人生が無意味であると感じたとき、必要なことは「それを有意義にしようとすること」ではなく「無意味と感じつつも暮らしていくこと」であると考えるほうに、自分の人生に対する姿勢がシフトしていることに、気が付いた。

いわば無意味さに耐えることだ、と。