2017年10月25日


年を取ることの利点の一つは「見栄を張らなくなる」ことだ。そしてまた、この「見栄」がマックスに達するのは20代ではなかろうか。人によっては30代になっても40代になっても見栄を張り続けるのかもしれないし、それがその人の幸福なのかもしれないけど、僕自身と僕の周辺の人たちを観察すると、こう思う。

僕の「見栄張り値」が最大値を記録したのは20代中頃から後半で、それから徐々に逓減し、最近はずっと低空飛行である(少しは見栄はある)。確かなのは、この先ふたたび上がることはないだろう、ということだ。

先日あるラーメン屋で、ビールを飲みながらピリ辛ラーメンを食べていた。餃子も追加した。餃子は普段あまり食べないけど、ラーメンだけじゃちょっと足りないなと思って頼んだら、非常に美味しかった。別に大した餃子ではない。店員は僕の目の前でおもむろに冷凍庫から餃子を取り出し、油で揚げたのだった。

しかし美味かった。そうなのだ、僕の味覚なんてその程度のものなのだ。冷凍餃子で十分なのだ。そして今更ながら、餃子とビールって美味しいな~、幸せになるな~、と思ったのである。たぶん、日本で餃子の王将とかでラーメンと餃子とビールを頼んだら、2千円は絶対しない気がする。もしかして千円くらい?しかしそれで十分に美味いし、幸せだよな、と思うのだ。

いったい20代のころに悩まされた「見栄」って何だったんだろう、と思う。はっきりいうと、それが20代の最大の苦しみだったんじゃないだろうか。

たとえば、大学の同窓生に比べて仕事がぱっとしないとか、「やりがいのある仕事」についてないとか、収入が少ないとか、FBの友人が少ないとか。FBなんてどうでもいいのにね。

今思えば、僕は「仕事がぱっとしないこと」「収入が少ないこと」「友達が少ないこと」それ自体に苦しんでいたのではなく、「人と比べて仕事のぱっとしない自分」「人と比べて収入の少ない自分」「人と比べて友達の少ない自分」を意識することに苦しんでいたんだろう。

そして多分、一番嫌だったのは、人からそう思われることだった。「こいつの仕事、つまんねーな」とか「こいつ年収すくねーな」とか「こいつ寂しい休日送ってんな」とか、「他人にそういうふうに思われること」が、最も恐怖していることだったのだ。

しかし今、僕は幸福である。家族がいて、家族によって幸せになっている。嫁さんのことは、結婚したその日よりも好きなくらいだ。

いや、幸福自慢はやめよう。僕が書きたいのは、ぱっとしない仕事と収入でも幸福になれる方法があって、それは「誰かと一緒に暮らすこと」だ、と。

誰かと一緒に暮らして、その誰かと週末にやっすい飲み屋にいってビールを飲みながら餃子を食べれば、十分幸せになれるのだ。

でもきっとこれすら、今の日本ではだんだんと難しくなっているのかもしれない。