2.25.2017

La Rotonde, Brussels


僕は仕事の関係でヨーロッパ各地に行って、いろいろな人と話をする機会がある。

そうすると、中には仕事とまったく関係がない、ほとんど愚痴のような話を聞くこともある。

しかし愚痴を聴けるというのはいい兆候で、それは彼らが僕にある程度心を開いている証拠だからだ。愚痴をいうときにこそ人は、本当の考え方や感じ方を吐露するものだ。

そうして多くのヨーロッパ人の話-愚痴-を聴いて思うのは、彼らは疲れている、ということだ。彼らは、非常に疲れている。

何に疲れているか?それについて語るとき、彼らは「これは政治的に正しくないかもしれないが」とか「私は人種差別主義者ではないけれども」と前置きして話を始める。

このように書くと、まるでヨーロッパの白人が悪者のように捉えられてしまうかもしれないが、事態はもっともっと、ずっとずっと複雑である。

移民の話だけではない。ヨーロッパ人同士でも、憎しみとまではいかずとも嫌悪は渦巻いている。

少し話は変わるが、たとえば南米の人間も、南米人同士でお互いに軽蔑していたり、憎悪していたりする。彼らは打ち解けると、その軽蔑だとか憎悪だとかについて、僕に語り始める。「あいつのしゃべり方わかるか?あれは田舎者なんだぜ」とか、そういう感じである。そういう話をするとき、だいたいそれは彼と二人きりで、時間は夜遅く、酒を飲んでいるときだ。

親密さを示すために自分の軽蔑や憎悪の感情について打ち明ける。そういう傾向が一部の人間にはある。

ありていにいえば、この世界は醜い場所なのだろう。

日本にいたときは、日本対中国・韓国の仲の悪さに辟易としていて、どうしてヨーロッパみたいに大人になれないんだろう?などと思っていた。

しかし、ヨーロッパだろうが米州だろうが関係なく、それが政治的な問題にまで顕現しなくても(あるいは認識されなくても)、憎悪や差別や妬みは世界のどこにでも存在する。それはフラクタルに存在する。もちろん、一部の人間ではある。しかし確実に存在する。

と、非常に疲れた。人間の負の感情は、本当に人を消耗させる。僕自身に負の感情がない、とは言わない。もちろんある。しかし今は、この問題については何も考えたくないほどに疲れた。でんでん・・・。

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