10.19.2017

Wer ich bin


医者に行ってきた。結果、何も問題ない、ということだった。

要すれば僕は心配性だ、ということだった。ちょっとした体の異変を、あまりにも大きく捉えすぎているらしい。そうなのだ、僕は心配性なのだ。しかしそれが僕なのだ。

たぶんこういうことは、切り離せないのだ。すごく簡単にいえば、長所と短所は切り離せない。光と影が切り離せないように。

僕はクラシックが好きで、ベートーヴェンやバッハからたくさんの愉悦を得ている。そういう性質と、僕が内向的で、書くことや散歩することを好んだり、あるいは将来や健康に対して大きな不安をときに抱くこと、こういう性質は、切り離せない。

それは、僕が僕であることなのだ。僕の心配性は治らないだろう。

人は交換可能な部品からなるのではない。分けがたい、一個の全体なのだ。

しかし幸福なことに、それでも、僕は僕でいたいと願う。

将来や健康に対してさしたる不安もいだかず、バッハやベートーヴェンに一片の関心も持たない、そういう人間がいたとして、それはそれでいいが、そのような僕に僕はなりたくない。

だから僕は甘んじて、僕の持つ(理由のない、空虚な)不安や恐れを受け入れなければならない。喩えていえば、税金のようなものだ。あるいは、自己が自己であることの費用。

それはどこかで、結婚と似ているかもしれない。僕の考えでは、幸福な結婚とは、あなたの願望に見合った「よい」相手を見つけることではない。

そもそも結婚したその日には、結婚相手のことなどよく分かっていない。当たり前のことだが、結婚は結婚したその日に始まる。それから人は、相手のよいところも悪いところも見る。そして、その両方を受け入れること、それがよい結婚だと僕は信じる。

妻は、僕の心配性を笑う。しかし、それを受け入れてくれている(と思う)。

僕も、同じだ。妻には、よいところと悪いところがある。しかしそれは不可分であって、丸ごと受け入れるしかないと思うのだ。

同じことを自分自身に対しても行わなければならない、と、40を前にして思う。

ああ、本当に人間とは面倒くさい、手間のかかる存在だ。だからこそ、機械とは違うのだ。

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